Fritz Haber
第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあった 第一次世界大戦の間、ハーバーはドイツ軍の忠実な働き手となり、化学兵器(特に毒ガス)の開発において重要な役割を担った。クララは毒ガスの使用に反対で、そのことで夫と口論することもあった(15)。
ハーバーの努力は、自身の監督のもとで1915年4月22日に実行された、ベルギーのフランドルにおける最初のガス戦という結果を生んだ。この戦闘の後、ハーバーはベルリンの自宅に戻った。ハーバーが自宅に戻った少し後の5月2日、クララはハーバーの軍用ピストルを手に取り、庭に出て、空に向けて1発目を撃ち、そして2発目は自分の胸を撃ち自殺した(17)。ハーバーは睡眠薬を飲んでいたため銃声に気付かず、遺体は息子のヘルマンによって発見された(17)。
1990年代、女性のための聴聞会において、クララは第一次大戦での毒ガスの使用に抗議して自殺した化学者として取り上げられた。そしてこのことがきっかけでクララの名は広く知られるようになり、ハーバーをはじめとする科学者の倫理問題も問われるようになった(17)。
他方では、自殺の数ヶ月前にハーバーの弟子である田丸節郎と会話した際にはドイツへの愛国心を表明していたほか、夫が開発した毒ガスの成果を誇らしく語っていたとの証言もある(22)。
しかし遺書が残っていないため、彼女の死についての全体像は明らかになっていない。